祈る、ということ

昨日は、「信じて待つ」という話がありました。その続きで、思い出したこと(フレーズ)があります。

『信じる』も『祈る』も、宗教的な場面でよく出てくる言葉ですが、ここではそういう意味ではなく、もっと一般的な意味で使っています。

(例えば、子どもの本やアニメには良く、『友だちを信じて』とか、『みんなで力を合わせて』とか、出てきますよね。それでみんなでお祈りすることになったり。『ポジティブな精神的エネルギー』くらいのニュアンスでしょうか、誰にでもある、誰にでもできる、そして日常にありふれた行為としての、『信じる』や『祈り』、と想定しています)。

それでも、季節柄、クリスマスやお正月には、ミサや初詣などに行かれる方も多いでしょう。宗教や文化背景に関わらず、『祈る』ということはとても素敵な行為だと思います。

文化や人種が違えば、その内容ややり方も違うとは思いますが、『祈り』『願う』、そのこと自体は共通するもののようにも感じます。

もしかしたら、昔は冬は寒く、暗く、食料も心許ないこともあって、皆、祈ったり、願ったりしていたのかもしれませんね。

もちろん、1年の終わりに感謝を、そして次の1年の始まりが良いものになりますように、という意味もあるでしょうが…。(それでも、この『1年の始まり』も、全世界で統一されたものではありませんし、それが『冬』にあたるかどうかも、地域によって違うんですよね…。本当に不思議です)。

そんな中で、各地で色々なバージョンで知られている、『お祈りの一節』をご紹介します。

『ニーバーの祈り』もしくは『平静(静穏)の祈り』として知られていることも多いようです。元はキリスト教のお祈りではあるのですが、今はそれに限らず、色々なところで使われたり、引用されています。(有名なアーティストの歌の歌詞に入っていたり、断酒会で使われていたりするそうですよ!)

意味としては、大体以下の通りです。

The Serenity Prayer(セレニティ・プレーヤー)

『(神よ)…変えられないことは受け入れる忍耐強さを、変えるべきことは変える勇気を、そしてその違いを知る知恵を…(与えて下さい)』

というものです。いかがでしょうか。

『神様』にお願いするかどうかはともかくとして、そのような心持ちでいられたら良いだろうな、と私は思います。『今は無理でも、将来はそうなりたい』とか、『偉くなってちょっと忘れていたけど、謙虚な気持ちを思い出したい』という時にも良い、自分を戒める言葉でもあるのかな、とも思います。

現実的な順番としては、『変えられることは積極的に変えて行き、変えられないことは耐えるしかない』のかな、とも思いますが…。

その違いについて考えながら、少し、自分を振り返ったり、与えられたものに感謝するようなお気持ちで、この時期を過ごしてみませんか。