陰キャ生活様式のススメ

 コロナウィルスはまだまだ終息せず、それどころか変異種が続々と発見されています。コロナウィルスは非常に賢いウィルスだなと常々感じています。語弊があり、不謹慎かもしれませんが、ある一つの側面、として読んで頂ければと思います。

 最も賢いと思うのは、無症状で感染力があることです。症状がなく元気にも関わらず、人との接触、移動を避けることが最適な感染予防策である・・・これは人間のもっている希望的観測と対人欲求に対しての挑戦のように感じます。「希望的観測」とは、合理性よりも願望や期待に基いて判断したり予測を行うことです。ある意味で、希望的観測がもてるから人は行動できるし生きていける、とさえ言えるでしょう。そして、対人欲求は社会を成立させるのに必要な欲求です。今回の誰もが無症状だが感染している可能性があるという状況で、希望的観測としての「まあ自分はかかってないだろう」と考える人と、慎重派「自分がかかっている可能性は0ではない」と考える人と大きく2つに分かれるのではないかと思います。緊急事態宣言下の現在では、爆発的な陽性者の増加に基づき後者が推奨されるでしょう。

 けれどこれまで他の状況では往々にして「もしかしたら」と慎重にリスクを考えて行動を制限すると、「気にし過ぎ」と言われたり「もっと気楽」にとか「前向きに考えて」と言われたような気がします。慎重になることと消極的になることは時に重なってしまい、あたかも何か悪いことのように言われることもあります。それよりは、あまり細かく考え過ぎずに楽天的に行動に移し、そして色んな人と関わり、発信する、それが積極的な行動とされ、そちらの方がポジティブとされ、評価も高い印象があります。単純化し過ぎでしょうか。学校でも、会社でも、集団にはそのような傾向はどうしてもあるように思うのです。

 しかし!!この賢いコロナウィルスにとっては、最も手強い敵は、希望的観測をもちにくく、人と接触せず、出かけず、それでも自分なりに楽しめる人間、そう!いわゆる陰キャなのです。遂に陰キャの価値が日の目を見る時がやってきたのではないでしょうか。さらにこんな話も耳にします。陽キャの人々が陰キャ的生活を強いられた時、あれ?なんか楽、と感じ、陽キャ生活に疲れている自分の一部に気が付いたりもしているのです。陽キャやるのも楽じゃない、実は私陰キャなのかも・・・と新たな自分を発見する。

 先日新聞でこんな投稿を読みました。「ハッピーな人は、友達と食事に行ったりカラオケしたり、趣味に出かけ、合コンで出会いを求め、自分もそうならないとダメだと思って面白くもないのに必死で同じことをしようとしていた。でも、コロナになってみんなそれが出来ない、自分もしなくて良いと思ったら、自分を縛っていたものがふっとなくなってとても楽になりました」と。このように、陽キャへのプレッシャーを感じている人が、全世界陰キャ生活により、陽キャ呪縛から解き放たれるきっかけにもなっているようです。

 これまでなにか劣等感を強いられてきた陰キャ。コロナ時代の生き残りをかけ、今こそ新しい陰キャ生活様式の価値を味わおうではありませんか。